三週遅れくらいの日本人論
(副題)教科書を読まない人の議論は車輪の再発明になる。
向けさせないではなく、(本能的な思考として)向けられないのである。
そして向いた人たちは政治の季節は終わったと歌った。
井上陽水の「傘がない」(1972年)である。
ちなみにコロナの大きな枠組みは一部で議論されている。
人権と安全のジレンマ - geopoliticsさんの日記(無回転思考)
枠組みを変えようという話も議論されている。
ルビコンを渡った大人たち 監視管理社会を希求する - geopoliticsさんの日記(無回転思考)
中心がない日本社会
天皇は中心だが政治権力が無い。少なくとも平安中期くらいから無いらしい。
中心部を持つ中国から輸入した皇帝制が形骸化したのは、実は日本が中心部がない構造を持つからである。皇帝による独裁政治(イメージとして始皇帝)は、日本では機能しない。
中央なき中央政府 御者がいない馬車で馬が暴れる - geopoliticsさんの日記(無回転思考)
日本の中空構造
これを指摘したのが河合隼雄で彼はその著書『中空の構造』で神話分析からその構造を明らかにした。AB二項対立を防ぐためにCという人物を置いて中和させる。中央はCがいるけどいない構造になる。これを天皇(=C)に当てはめると分かる。いるけどいないのである。
abcの登場人物(神)はこちら。
Aはアマテラス
Bはスサノオ
Cはツクヨミ
このツクヨミが存在感ゼロ。だけど存在するのである。
一番を作らない「じゃんけん」システム
一番を作るのが欧米。常にチャンピオンがいてこれにチャレンジャーは挑戦する。中心にチャンピオン(勝った方)が居続ける。結果、起きることは正反合である(改良・バージョンアップ・アップグレード)。常に新しいチャンピオンが生まれ歴史は歴代のチャンピオンの羅列になる。
日本は二項対立にしないため、じゃんけんのように一番が存在しない。新しいチャンピオンが生まれず同じレベルを徘徊する。
中心=本質がある欧米
中心があるとどうなるか。聖書が出来る。聖書という中心根本教義=セントラル・ドグマが社会の中心に鎮座する。これから逃れようとしたのが(たぶん)ニーチェ。
中心は他にもあって、例えば美術はギリシア以来の伝統がある。ここを中心に現代アートまで語るのがあちらの教養人である。
この文化を近代文明に当てはめると憲法になる。憲法は中心教義である。しかし日本はそいう感覚がない。だから憲法に立ち返ってという作法が出来ない。出来るのは法曹関係のみである(実態は怪しいけど)。
「人権」という外来種は日本で定着できるか - geopoliticsさんの日記(無回転思考)
「である」ことと「する」こと~やっている感の源流~
行動に関しては丸山真男が述べている。
『日本の思想』の該当箇所を読むとわかるはず。
実際に行動に移すとコストがかかる
これは訓練コストを誰が負担をするかということになる。行政(=税金)は負担できないない。よってやったふりがうまれる。このあたりを誤魔化している議論は無意味になる。しかし、税金の話をすると嫌われる。
人は訓練をして(金をかけて)初めて動けるという軍隊のお話。
中心がある意味
中心は原理原則があるということです。これに縛られると考えるのが日本人です。原理原則を使ってなおかつそれを積み増し=改良したのがガリレオなどあらゆる科学者です。基礎的なことの延長に新発見があるのです。基礎的なところを改良できたのが、のちに大科学者として名を残します。ガリレオしかりケプラーしかり。
基礎的など土台の上に立つことを巨人の肩に乗ると言います。これを言ったのがニュートンです(実際は違う)。基礎とは中心であってそれ以上でもそれ以下でもありません。中心の延長上に新発見や新理論があります。
そして否定も肯定もされないものは誰も見ていない(引用されてない)のです。
中心がなく枠しかない世界
中心がないと原理原則がないので状況によって枠が動く。これを空気という。空気が動いたのは戦後すぐで戦争から反戦争へ枠が動いた。この枠を機敏に感じた人が戦後も生き残った。
空気問題を指摘したのが評論家の山本七平で、論理的には正しいけど空気的には言えないということの意味を論じていた。
教科書は枠ではなく中心である
教科書はこういった基本的なことを教えてくれるのである。まさに中心にある教養である。上記の本を読まない人は中心で考えられない人である。
そして日本人はこの中心を持つ構造を嫌うのである。
漫画村は一つだが、漫画ムラはたくさんあって、中央で一つにまとまってない。
いつの間にか14ものアプリをインストールする羽目になっている。
傘がないが入っているアルバム。