主体的な学びの限界と知識の注入=暗記の重要性

人は手持ちのカードだけで考える

知識は過去の積み重ねであって昨日今日の出来事ではない。それを組織的に安価に大量に教えるのが学校教育である(かつての私塾でもOK)。

それがないとどうなるか。

ニュートンが言った「巨人の肩に乗る」の肩の部分は学校で学ぶ。学校以外はコストがかかる。専門家が洗練させた知的体系をたたき込む(これをカリキュラム)。大人になって意味がわかることがある。選手が晩年になって理解することをコーチになって選手に教える。これの規模が大きいものが学校教育(学校以外は高いのよ)である。

【「学び合い」教育の諸問題(1)】この教育「実践」を行う教員たちは「子供の潜在的能力」や「子供の可能性」に期待する教員が多いが、学校教育「以前」、教員の教育「以前」、教室授業「以前」の子供の「潜在的能力」、「可能性」とは、結局のところ家族の環境や地域の環境に色濃く影響を受けたものでしかない。

BLOG「芦田の毎日」: 「学び合い」教育の諸問題(1) ― 上越教育大学・西川純とのやりとりを通じて思ったこと

 

【「学び合い」教育の諸問題(4)】家族の環境や地域の環境に影響された子供の存在を肯定してしまうと、階層を再生産することになる。家族の環境や地域の環境とは、階層構造そのものだからだ。最近の研究者の報告では、子供の大学進学率は母親の学歴に依存するというものもある。

点では正しいのだけどそれを線につなげる人はあまりいない感じ。前提が感情だから。気持ちは常に正しい。

こういうところ(感情は正しいと思ってしまう)をあらかじめ取り除ける技術が必要です。