スポーツから気合いと根性が消える

努力も才能である。

 

強制なき現代スポーツ事情~雲とヘドロ~

主体性という資質

前から感じていたことだが現代のスポーツは貴族化している。

どういうことかというと、自分で考えてトレーニングできる一部のエリートとそのお金を出せる家庭がそろって初めてスポーツが成立するのである。

必要条件が金で十分条件がエリートの資質である。

言われなくても自分をコントロール出来る子供がスポーツをやる。

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不良のスポーツとしての野球があった。ラグビーもあるが伏見工業高校が舞台である。

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管理野球と伸び伸び野球

管理野球下関国際高校が甲子園に行った。そこでその管理が叩かれた。その高校の野球部顧問が言ったことが、自主性を待っていたら3年間が終わってしまう。まさにその管理法が必要な高校だった(地元情報らしきコメントがあった)。

 

そういう困難校高校が結果を出したが、多くの学校は主体性を基本とする指導法になっている。イチローの発言はそれをよく表している。

ある時代まではね、遊んでいても勝手に監督・コーチが厳しいから全然できないやつがあるところまでは上がってこられた。やんなきゃしょうがなくなるからね。でも、今は全然できない子は上げてもらえないから。上がってこられなくなっちゃう。それ自分でやらなきゃ。なかなかこれは大変」と様変わりした現代では、選手がより自身を律することが求められる過酷さを指摘した。

イチロー氏 「指導する側が厳しくできない」時代の流れ 「酷だけれど…自分たちで厳しくするしか」― スポニチ Sponichi Annex 野球

 

高校生たちに自分たちに厳しくして自分たちでうまくなれって、酷なことなんだけど、でも今そうなっちゃっているからね。

 

今の学校教育もこの主体性を重んじている。生徒のやる気を信じそれをサポートする。

その結果がWBCで見られた栗山監督の指導法である。主体性の結果生まれたエリートの集まりがプロ野球及び代表選手である。

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特権階級化するスポーツ

そして一部の限られた人のスポーツになりかねない。競技人口と観客がどのくらい相関するかはわからないが、やったことがない人が球場に来ることは難しい。だから女性客を呼び込むことに必死である(カープ女子など)。

大谷翔平が危惧する野球人気の低下

WBCの時も大谷の発言はこのあたりを危惧していたと思われるものが多い。現役選手のトップとして野球の普及を行っている。チェコ代表の帽子をかぶったのもある程度わかってやっている。

野球が普及しないと裾野と野球用品メーカーの売り上げが落ちる。

アシックス、グラブ・バット撤退 野球用スパイクは継続 - 日本経済新聞

もちろんその上に野球選手がスポンサードされる側としている。巨大なピラミッドの下層部分を強化しないといずれ山が低くなる。

大谷翔平が6万個のグラブ寄贈を表明 日本の全小学校約2万校に「将来一緒に野球ができることを楽しみに」「野球しようぜ!」 - ライブドアニュース

エリートと大衆の趣味の違い

日本は例外の世界で大衆とエリートが同じものを好む。イギリスが典型でサッカーは大衆が見る物で貴族は別のことをやっているそうだ。ゴルフも実はエリートではない。階級(クラス)による分断がある。

教育側から見た指導論~主体性とは家庭環境である~

まず主体性は裕福な家庭に存在するとしている。

〈学校教育〉に〈学ぶ主体〉が存在するかのように思えるのは、家族や地域の文化環境(〝裕福な〟環境)のせいであって子どもそのものの力によってではない。学校教育は、家族や地域の文化環境をとりあえずは括弧に入れて、クラスに入れば子どもたちを公平平等に扱うところにある。すべてはこれからというところにしか学校教育の存在意味はない。そこで初めて、次世代を担う子どもたちは親の世代や階層(家族や地域の文化環境)を超えてあらたな階層を形成していくのだから。

BLOG「芦田の毎日」: 学生は〈顧客〉ではない(『シラバス論』186~188頁)

 

【「学び合い」教育の諸問題(1)】この教育「実践」を行う教員たちは「子供の潜在的能力」や「子供の可能性」に期待する教員が多いが、学校教育「以前」、教員の教育「以前」、教室授業「以前」の子供の「潜在的能力」、「可能性」とは、結局のところ家族の環境や地域の環境に色濃く影響を受けたものでしかない。 

BLOG「芦田の毎日」: 「学び合い」教育の諸問題(1) ― 上越教育大学・西川純とのやりとりを通じて思ったこと

 

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