令和の化石
戦後の平和論はインチキだったと明らかになったウクライナ問題で、未だに戦後の平和理論が出てくる。SEALDsが示したように進歩した部分は見た目で、中身は古い酒のままだった。
「殺したらいけない」がなぜ言いづらい 徹底抗戦が支持される危うさ:朝日新聞デジタル
シベリア抑留は歴史じゃないのか。
二〇世紀日本限定の平和論。平和教育の「被害者」の典型例です。
平和論には「非武装」があるので「正しい」です。それがウクライナ侵攻で全部ぶっ壊れた。
NHK | “平和”とは何か 日本の中高生とウクライナから避難してきた学生たちが“戦争をなくすため”の議論を重ねた夏 | ニュースウオッチ9 - YouTube
平和は鳩時計と左翼しか生まれなかった。
「戦争ラブな男」には「セックス・ストライキ」 求められたら会員証提示、「お断りします」: J-CAST ニュース【全文表示】
インチキ平和論が通用したのは二つの奇跡からである。
一つは戦後の統治が上手くいったこと。
GHQの統治は大きく見れば他の占領地域より穏健だったため、苛烈な弾圧政策とその抵抗運動というものが少なかった。
なぜ可能だったかというと検閲があったからである。
反対にソ連が侵攻した満州や占守島の悲惨だった。ソ連側に占領された地域は悲惨で、虐殺(ポーランド)や強制移住があった。反乱を防ぐためらしい。
もう一つはすぐに朝鮮戦争と米ソ対立で力の均衡がもたらされたことである。これによって一種の緊張状態が生まれ、極東では朝鮮半島を除くとある程度安定してしまった。
別の場所では地政学でいうと海洋と大陸の中間地帯が米ソの代理戦争になった。今でもこの代理戦争(ウクライナの後ろに米がいて米露対立)という構図で見る人はこの時代の生き残りである。
バルト三国はソ連の西の出口として支配下に置かれた。東の出口はウラジオストック(ソ連・現ロシア)で、その先に日本列島がある。
この平和ぼけは左右に関係が無かった。虚構だと認識された事件がミグ25事件である。
しかし認識は変わらずそのままソ連崩壊まで時間が進むことになる。いやソ連が崩壊しても主体的に動くことはしなかった。
動いた人が安倍元総理である。それがクワッドである。太平洋防衛機構みたいな組織である。それは対中国である。
戦後の平和ごっこは終わったが次が見つかってないのです。
戦うって何?:「戦わなければ殺される」ウクライナと日本を隔てる戦争の記憶 | 毎日新聞
中国新疆、少数民族を「奴隷」化か 国連特別報告者 写真3枚 国際ニュース:AFPBB News